【4/20】表現の自由と芸術について考える

愛知トリエンナーレはいろいろあったようですね。しかし、議論の内容が少しずれていて、政治的な論争が多く、とても違和感を感じずにいられませんでした。そこで、そもそも芸術や学問とは何かを整理したくなりました。

一言でいうと、「内的精神的自由」が大原則だというのが私の見解です。芸術は、見せるためのものではありませんし、楽曲は聞かせるものでもありません。作者が、内的に精神的に自由に創作したものがただそこに存在しているだけであり、見たくなければ見なくてもいいし、見たければ勝手に見てください、という構図が原則だと思います。これは、私の意見ではなく、もともと著作権が発祥した時代は、このような定義だったのです。著作権は、おそらくイギリスで生まれた取り決めだと思います。当時の資料を整理して理解できたのですが、芸術家は好きなことを、無我夢中でやりますから、まったく仕事せず、ほとんどが極貧者ばかりでした。しかし創作物は素晴らしく、人の心を動かすもので、そういう意味では、人々へ幸福を与えたのだから、せめて食べれるくらいの経済力を芸術家に授けましょう、という原則によって、著作権が生まれました。最近は、楽曲も絵もあらゆる作品が、見てください、むしろ”見ろ”と主張するものばかりで、芸術を全く無視している感じがします。

そもそも芸術は、見せる側(作者側)に自由はなく、見たい側(視聴者側)のみ自由が与えられています。なので、作者は、内的にかつ精神的に自由を与えられているだけであって、外的に他人の精神へ及ぶ自由は原則ありません。日本の、特に田舎の駅前なんかに裸婦の像が建ってたりしますが、見たくない人が見れないようにしておかないと、倫理的ではないと思います。

学問についても同じで、自由という言葉の中には”正しい”が含まれていますから、例えば、殺人は学問になりません。今、”日本禁煙学会”なるものがあります。ここで整理が必要なのが、”禁煙”は学問になりうるかです。ただ、そもそも日本禁煙学会は、一般社団法人ですから、複数の企業が集まった普通の会社なので、ネーミングが煩わしいですね。人事構成は、各医師会の偉い方々ですから手に負えません。話がずれましたが、喫煙は権利です。禁煙は自由です。従いまして、喫煙学会は認められますが、禁煙学会は認められません。人の権利を阻害する行為に学問はあり得ないのです。芸術も、人を洗脳させたり、見せつけたりしてはなりません。内的、精神的に自由という制限を超えてはいけません。

宮田

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