【7/1】プラスチックを考える

マイクロプラスチック(レジ袋)の排斥運動が起きています。先日、「専門家」と称する人が「プラスチックは岩にぶつかったり、波で砕かれたりして小さくなるが、レジ袋は小さいので岩にぶつかって粉々になるということはない」だから「レジ袋」は海を汚染すると説明されていました。私は「えっ!誰がそんなバカなことを言っているのですか!」と心の中で叫びました。いくら御用学者とはいえ、これほど馬鹿らしいことを言う専門家ということになると、ほとんど犯罪に近いのですが、一般的な人は専門家が言うと本当と思ってしまうのでしょう。

人の言ったことを疑わず、質問もしないので、洗脳するのは簡単です。その代表的な例に「湾岸戦争の時の原油にまみれた海鳥」というのがあります。あるカメラマンがトリックで原油をかけて撮影し、可哀そうなことに原油にまみれて飛ぶことができなくなったと宣伝しました。これが世界中に広まり、たちまちイラクの戦争になったという例もあります。あれほど「戦争反対」に熱心な人が鳥の写真1枚で大規模な戦争に賛成し、多くの死者を出すというのですから滑稽ともいえます。この有名な写真が事実ではなく、トリックだったというのがわかったのは戦争で多くの人が死んだ後でした。

誰にも何にも犠牲が生じなければ、目で見たものをそのまま信じても良いと思いますが、現実には犠牲を伴うことが多く、その一つに2017年に突然騒がれた「ストロー事件」があります。中米のコスタリカで鼻にストローが刺さっているカメの映像が流れ、たちまち「ストロー追放運動」が始まりました。続いて「プラスチック排斥」、「レジ袋追放」、「マイクロプラスチック汚染」というキーワードが世界に広まりました。一つ一つについて証拠を持っているわけではありませんが、あれほど見事にストローが鼻の穴に入る確率はほとんどないし、その動きを見ると最初から「環境運動」の仕掛けがあり、スポンサーがいて、計画通りに進めているように思います。

さらに運動に無批判な日本のマスコミが報道を始めますと、理由はともかくプラスチック排斥運動が起きます。そうなると「右へ倣え」の風土が加速していきます。

さて、本題ですがプラスチックは自然の中に残るものなのでしょうか。

この問題はすでに1980年代に一度、大きな関心を呼び、自然環境の中で分解しやすいプラスチックの研究が盛んに行われました。当然のことながら並行して「プラスチックの分解」の研究も始まり、プラスチックがほとんど容易に自然の中で分解して無くなることがわかり、研究は1990年頃に自然消滅しました。本当は大規模な研究をするまでもなく、プラスチックが自然の中で残るはずはなく、自然というのは常に「炭素不足」です。なぜなら、ほぼ炭素だけが生物の「ご飯」であり、生物はいつも「お腹を減らしている」からであります。食べ物がそこにあって見過ごす生物(微生物も含まれる)はいません。

プラスチックはもともと生物の死骸ですから、死骸がそのまま自然に残っているなどということがないのと同じです。ただ、その日のうちに食べられてしまうものと、成分や場所によっては1か月ぐらいは残るものも少ないけれど存在します。だから、地球上をくまなく探せば、生き物の胃に残っていたり、皮膚にくっついているものもあるわけです。さらに奇妙なことは「プラスチックが小さくなると分解しにくくなる」という論です。もしそんなことがあったらそれこそノーベル賞ものだと思います。

物質が消化されたり分解したりするときには、体積に対する表面積の比で決まりますので、日常的にもお母さんが「よく噛みなさい!」と子供を叱っていることがありますが、細かくかみ砕くとよく消化できることは誰もが知っている事実です。また、コーヒーにお砂糖を入れるときは、砂糖の塊より、粉末状の砂糖を入れた方が解けることもご承知のとおりです。細かければ細かいほど溶けやすいのです。それを知っていて「マイクロプラスチックは環境に残る」と言っているのは、いわゆる政治家の御用学者で、彼らは地位やお金のためには何でも言う、学問などまったく興味がない人たちです。しかし、日常生活でいつも自分が言っていることと違っていても気が付かない国民の方も問題です。そこで「コスタリカのカメを救うためにレジ袋を有料化しよう」などという訳の分からないことを言い出す人が出てきます。その人もひそかに儲けようとか、次の職を得ようなどの思惑があるので仕方ありません。「誠実」こそが日本の発展の原動力になった時代に、今しぐ帰りたい、子供たちのためにできること、大人の責任を果たしたいと切望する、荒れた天気の7月1日の朝でした。

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