【11/3】脱炭素社会を考える

総理大臣が表明した脱炭素社会とは何かを、今の価値観で検討すると「学問の正しさ」と「政治的・社会の正しさ」の違いが明らかになってしまい、“またか“とうな垂れてしまいます。先日、ある女子中学生等と炭を燃やしながら川原でBBQする機会がありましたので、脱炭素社会を学校でどのように教わっているのか尋ねてみますと、脱炭素社会を肯定する教育を受けているようでした。中学校という学問を専門にしているところでさえ、政治に寄っていて、日本は、北朝鮮を超える洗脳社会になってしまったと判断して良いと感じずにいられませんでした。

しかしこの世には、脱炭素社会をしっかり、真面目に建て付けた生物がいます。それは稲(米)です。人間が田植えをして、人間が収穫し、人間が米を頂くのですが、その米粒は炭素の塊です。ご飯は炭水化物です。

ここで私は考えるのです。炭素を貯めたお米を、もし、稲自身のエネルギーに使えたならば、収穫時期を越えていつまで生きれるのだろうか?と言う疑問です。実は既に研究されていまして、どうも収穫時期の翌年の2月ごろまでは生きれるそうです。つまり、人間が収穫しなければ稲の寿命は12ヶ月なのに、それを放棄して半年で稲は寿命をむかえているのです。蓄えた炭素(米)を人間に授け、自分の寿命を本来の半分で潔く死ぬと言う美徳が稲なのです。

経済とCO2排出量は比例します。つまり、お金はCO2そのものと考えて全く問題ありません。今、生きている人間が経済活動を通じて獲得したお金を、自分に半分使い、次世代のために半分残すという道徳が、今の我々にできているだろうか。相続税だの、低炭素社会を目指すために数十兆円にもなる予算を使う。その予算は政治家や天下り先、御用学者の報酬になり、彼らがその報酬を使う事でCO2になります。かつて鳩山首相時代、節電を訴える鳩山さん自身の自宅の電気代が月23万円だったらしいのですが、それと同じで、役人のような高級とりはCO2をジャンジャン出しているのも関わらず、彼らが脱炭素社会を国民に訴える。国民も国民で、学問の衣を被った思想的で偽善的なことを子供に洗脳する。今日の天気のように、憂鬱な気分の文化の日の朝でした。

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