【11/30】信念と正義を考える

現代の日本には正義があるでしょうか?正義がなくても子ども達はすくすくと育つことができるでしょうか?正義がなくても正義が通るのでしょうか?正義が無くても社会は暗くならないでしょうか?我々の最後の砦、野党や新聞はなぜ体制側になびくのでしょうか?

ヨーロッパ近代が夜明けを迎えようとしていた1632年、ガリレオは20年ほど前にリッペルスハイが発明した望遠鏡で天体をくまなく観察し、「天文対話」を著し、宗教界は直ちにこれに反発、ガリレオは宗教裁判にかけられることにります。自然は神の摂理を体現しており、自然を観察することは第二の聖書を読むことだというガリレオの主張は入れられなかったのです。

宗教界はなぜ、ガリレオの研究を支持しなかったのでしょうか?それは天体を観測したということが気にくわなかったのではなく、その結果、体制の維持に不都合だったからです。

ダーウィンが「進化論」を発表したあと、社会から猛然と反発がきました。人間がサルのような下等なものから生まれてきたとはどうしても思いたく無かったのです。それに対してダーウィンは、「人間は真実を信じるのではなく、信じたいものを信じる」と述懐しています。

ガリレオやダーウィンの例でもわかるように、学問は「今の価値観を覆す」のが主要な役割です。だから、現在の政治体制や社会体制とは相容れません。

学問は能率の悪いものであるし、何かといえば批判的です。だから「グズグズ」しています。学者は今を覆そうとするので、ハッキリとものを言えません。そして今を覆すのだから批判的です。そしてその批判的な学者に教育されるから次世代は、さらに批判的になり、それ故に新しい社会を次世代が築く事ができるわけです。もう一つ、学者は身分が保証されています。上司がいなく、だから勝手なことを言えるのです。ガリレオが地動説を唱えても学問の社会では許されるのです。「方針に反するのではないか!」と叱られれば「それが私の任務です」と開き直れるのが学者です。

もし社会システムからの締め付けが強く、自由な学問が出来なくても、そうだからといって体制になびかない学問的信念を持つことが学者としての第一の要件であり、システムを尊重する社会と、システムより信念を重視する学問とは全く違い、違うから併存できるわけです。

私は正義というのは「みんなの前で言えること」だと思うのです。実はだれでも何が正義かはよく知っている。でも自分の心の中にある利己と相容れない時があり、でも人間は他人の間で利己を出すことができません。それはおそらく人間というものが集団性を持ち、その集団性を保つために他人の前で利己を出すことをためらうのだろうと考えます。

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